追悼 別府竹細工作家 森脇けい子さんを偲んで
2025年10月 別府竹細工の作家で伝統工芸士の森脇けい子さんが逝去されました。
女性伝統工芸士展では、2009年(平成21年)第13回女性伝統工芸士展に初出品されました。以降第14回、16〜24回、そして2022年(令和4年)九州の女性匠展と合計12回出品されました。
2017年からは、伝統工芸士・女性の会事務局にも席を置かれ、女性伝統工芸士展の運営にも惜しみなく活躍をしていただいた姿は今でも目に焼き付いています。
明るく闊達な話し方は人前であればあるほど明瞭なお声を忘れることはありません。工芸のお話だけでなく、もっとたくさんいろんなお話をしておけばよかったと思います。
女性伝統工芸士展に参加された方、お客様におかれましても、けい子さんの作品を大切に使い続けていらっしゃることでしょう。
けい子さんとの思い出とともにできる限り大切につかいつづけたいと思います。

以下は、2013年に発売された「伝統工芸を継ぐ女たち」※より
〜シンプルで飽きない作品をつくる 別府竹細工 森脇 けい子〜 を著者:関根由子様(和くらし・くらぶ)のご承諾をいただき掲載させていただきます。
シンプルで飽きない作品をつくる 別府竹細工 森脇 けい子
竹取りの翁が竹の中からかぐや姫を取り出す「竹取物語」は、日本最古の物語ともいわれているように、日本では昔から竹の文化が盛んでした。真竹の生産量が全国一の大分県では、別府竹細工が有名で、江戸時代、別府温泉の湯治客が使う笊や籠などがみやげ物として人気となり、地場産業として発展しました。
東京で編集者として働いていた森脇けい子さんが、竹細工を学ぶため別府に移り住んで十余年。大分県唯一の七人の女性竹職人グループ「ヴァニエ」(フランス語で籠を編む人)のリーダーとしても活躍しています。
手仕事をしたいと転職
青森県八戸で育った森脇さんは、短大入学を機に上京、卒業後は編集プロダクションに就職、単行本の編集などに携わっていました。最初は面白かった仕事でしたが、企画を考えたり、インタビューをすることが苦手で、いつしか「転職して、何か手仕事をしたい」と考えるようになりました。
ちょうどそのときテレビで紹介されていた女性の竹工芸家が、別府の職業訓練校で学んだことを知りました。初めて目にした竹のバッグに魅せられた森脇さんは、すぐに会社を辞め、その訓練校の入学試験を受けます。
ところがその試験には不合格。竹細工をやることしか考えていなかった森脇さんは、がっがりしながらも市内の別府市竹細工伝統産業会館を見学しました。そのときに、職員の方が紹介してくれたのが竹工芸家の早野久雄さんでした。「どうしてもやりたいのだったら……」と早野先生の言葉を頼りに、近所にアパートを借り、以後一年半先生のもとに通います。基礎から教わった後、伝統工芸士の森上仁さんの工房でしばらく働き、その後独立したのです。
自然の色で編み目の美しさを表現
森脇さんが竹細工で使うのはカセイソーダで油抜きし、天日乾燥した2〜5年ものの真竹。作品ごとに必要な長さ(約80〜90センチ)の竹を購入し、自分で竹を割ってひごを作ります。まず竹割り包丁を使ってハカマを削り取り、竹の円周につけた印どおりに割り込みを入れ、竹を割ります。この「荒割り」の後、皮と身に分ける「荒剥ぎ」、さらに細く割る「小割り」、皮をさらに、薄くする「薄剥ぎ」をします。さらに、V字にセットした切り出し小刀の間にひごを一本ずつ通し幅をそろえる「幅取り」、厚さを均一にする「裏すき」、両端の「面取り」をします。こうして、手触りのよい扱いやすいひごができます。ひごの良し悪しが籠の出来を左右するので、ひご作りはとても重要です。
ひごができたら、編む作業に入ります。森脇さんがよく作るのは、亀甲編みのバッグ、八つ目編みの買い物籠、桔梗編みの盛り籠などで、ふだんに使えるもので、「シンプルだけどちょっとしゃれていて、丈夫なもの」。丁寧に集中して編んでいきます。森脇さんは竹に塗装をしません。「染色をしないそのままの色が好き。光沢があってしなやかで、編みの美しさも映えるような気がします」。森脇さんの作品は、年月が経るに従って、つややかなあめ色に変化していきます。
七人の女性職人グループを結成
竹細工を学ぶ女性は多くいても、それで生活するには苦しいため、プロとして続ける人はあまりいません。森脇さんが続けられたのはやはり好きだから。まだまだ覚えたいことがあるし、作品をいいねと褒められると励みになると言います。
特に転機になったのが、別府竹製品協同組合に入ったこと。組合関連の展示会で他の職人や異業種の人たちと知り合い、それぞれの大変さと頑張りを目の当たりにして、意識が大きく変化しました。それまで作品の売り方もわからず、また竹への情熱も薄れていた時期だった森脇さんですが、外に目を向けたら、竹細工をほしいと思っている人が多いことに気づき、以来、積極的に販売ルートを探すようになりました。さらに組合の後押しもあり、七人の女性たちと「ヴァニエ」を結成、企業や国の補助を得るなど、活動の幅が広がりました。グループのメンバーは作風も作る動機も違う女性たちですが、暮らしに密着した女性ならではの作品は、使いやすく好評を博しています。
「作った作品はすべて自分の責任。残念なものを作らないように気を引き締めると同時に、使う人に笑顔が増えるよう、柔らかい気持ちで作り続けたいと思います。」
【別府竹細工】
『日本書紀』に景行天皇が九州行幸の帰途に別府に立ち寄った際、同行した膳伴が良質な篠竹を見つけてメゴ(茶碗籠)を作ったとの記述がある。
本格的に生産されるようになったのは、室町時代で、行商用の籠が生産され売り出された。江戸時代には、別府温泉の名が広まり、湯治客が使用する飯籠、笊などの竹製生活用品が販売された。明治35(1902)年、別府工業徒弟学校竹藍科が設立され、多くの優れた技術者を輩出し、現在の別府竹細工の基礎が築かれた。


※㈱學藝書林 著者/関根 由子 写真/公文 健太郎
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